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2015-02-24

讀賣新聞の購読を一時中止

(2015年1月15日付け)
私は日刊紙の朝日新聞、讀賣新聞、しんぶん赤旗を読んでいます。自分の生きている今の時代を知るためには視点の異なる複数の媒体が欠かせないと思うからです。そして、新聞だけに頼らずテレビ・ラジオやインターネット情報も参考にしています。

私は昨年の2014年7月1日の安倍内閣による「集団的自衛権の閣議決定」は戦後70年目の日本の針路に決定的な悪影響を及ぼすと憂慮しています。これは日本国憲法との整合性の観点からも重大な疑義があります。まさに解釈改憲であると断じることができます。

そのような時代の節目に際して、日本のマスコミは国民と読者に正しい情報を提供する義務があります。2015年1月15日付けの新聞各紙は2015年度当初予算案に関して報道しました。読売新聞の一面トップは「地方・子育て重視予算」とぶち抜いています。


しかし、その後の国会論戦で次第に明らかになって来たように、当初予算案は社会的弱者への目配りは乏しく、富裕層など勝ち組にやさしく、対外的には勇ましく防衛(軍事)費を伸ばしたのが実態ではないでしょうか?

随分の期間を考え、迷ったけれども、ついに私は2月いっぱいで讀賣新聞の購読を一時中止し、東京新聞を読むことを決断しました。讀賣新聞の現場の記者さんには何の恨みもないけれど、最近の讀賣新聞紙面のマスコミとしての姿勢にいくつもの疑問を感じての私の決め事です。

2015-02-23

一人の声が世界を変える、かわぐち九条の会から

(かわぐち九条の会10周年集会)
2015年2月22日は「かわぐち九条の会の設立10周年集会」に参加しました。2005年7月6日の設立以来10年間で会員約1000人、事務局会議216回を重ねるなどの地道な活動を積み上げて来ました。10周年集会は元・朝日新聞特派員の伊藤千尋さんを招いて開催されました。

伊藤さんの講演タイトルは「一人の声が世界を変えるー憲法9条を壊して戦争をする国にしてはなりません」
世界の70か国以上を訪問した経験から日本国憲法9条がスペイン、コロンビア、コスタリカなどで生き生きと輝いていることを知りました。これらは私がこれまで思いもしなかったことです。

スペインのカナリア諸島テルデ市のヒロシマ・ナガサキ広場には憲法9条の碑があるそうです。地元のサンチャゴ市長が平和を考える広場を造りたいと考え、市議会に諮り、これらの措置を満場一致で決定したとのこと。

中南米のエクアドルでは、2009年に国民投票によって「エクアドルでの外国の軍隊の存在を許さない」との決定を行い、それまで基地を擁していた米軍を追いだしました。

2015年の1月8日にコスタリカでは「コスタリカ国民と日本国民にノーベル平和賞を贈ろう」との国会決議を行いました。この国のアリアス大統領は1987年にノーベル平和賞を受賞しています。この国は兵士の数ほど教師を作ろうとのスローガンを掲げて、軍事予算を削って教育予算に充てる政策を進めています。ついにエクアドルには一台の戦車も無くなったとのこと。

我が日本では平和憲法の下で、戦後70年も続けてきました。しかし、この「戦争放棄」の縛りを捨てて、安倍自・公政権は集団的自衛権の閣議決定という姑息な手段で戦争への道を突き進んでいます。一人からでも声をあげてこの危険な道をやめさせなければと思います。





2015-02-14

見沼通船堀公園からのんびりウォーキング

(芝川周辺)
(見沼通船堀史跡)
2月11日に埼玉県ウォーキング協会の「イヤ―ランドを歩こうCのんびりコース7km」に参加した。東浦和の見沼通船堀公園に集合して金崎、東内野、行衝、大崎公園、浦和くらしの博物館など芝川の第一調整池周辺を廻ってゆっくりと歩く企画だった。天候に恵まれ初めて経験する地元の風景を楽しみながら無理なく歩くことが出来た。

恥ずかしながら集合場所の見沼通船堀公園の名称を見沼通りにある船堀公園と勘違いしてしまい場所探しにひと苦労した。埼玉県人となって40年にもなるというのに、如何に地元と縁遠き生活をしてきたか思い知った次第。地元を楽しむのは定年後の人生の重要な要素と思い始めています。




2015-02-10

憲法9条をめぐる運動の正念場について

 
(2.3埼玉大集会)
ー「憲法9条をめぐる運動の正念場」ーこれは小森陽一さん(9条の会事務局長、東京大学大学院教授)の2月3日の「いのち 平和 憲法9条 2.3埼玉大集会」における講演タイトルです。この場で小森さんは「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」の肝は以下の条文ですとし、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」から武力行使の新三要件を説明しました。




 
(小森陽一さんの講演)
「こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解基本的な論理に基ずく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」と閣議決定文書には書かれています。

 小森さんは旧三要件との対比を行い、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において」との記述がこれまでとはことなり、安倍内閣は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃に際しても、集団的自衛権の行使が憲法上許容されるとしたと解説しました。そして、「我が国と密接な関係にある他国」とは時の内閣の解釈によってどのようにでも決められる恐れがあるとして、この集団的自衛権の行使を容認する閣議決定は撤回されるべきと主張しました。

 そのうえで、集団的自衛権の閣議決定の法制化作業が進められるなかで、戦後70年の今が歴史的にどのような時点なのかを正確に知る必要があるとしました。1950年代からのふりかえりがありました。今回の講演で私にとって特に印象的な話題は2004年の九条の会発足当時には新聞等の世論調査で憲法9条改正すべきとの世論が上回っていたのが、それから10年を経て世論が逆転したことです。この間に9条の会など草の根の運動が目に見えて広がっていることも事実ですし、安倍政権が最も恐れているのは集団的自衛権の行使容認に反対する草の根の民意です。ここに今日の情勢の根幹があると指摘しました。

私はこれらの指摘に大いに共感するものです。草の根の広がりを強める必要があると思います。


2015-01-27

北海道ふるさと会連合会新年交礼会

(北海道ふるさと会連合会新年交礼会)
(北海道地名かるた)
1月17日に東京なよろ会の役員として北海道ふるさと会連合会新年交礼会に参加した。会場は明治記念館、北海道ゆかりのふるさと会61団体と協力企業関係者約200人が参加した。

その場で北海道地名かるたを入手した。私のふるさと名寄市は「サンピラー 零下二十度 名寄の冬」との絵札だった。確かに私の子供の頃はマイナス30度を経験した覚えがある。しかし、私自身はこのサンピラー現象は未経験のまま、ふるさとを離れた。説明を読むと実に素晴らしい自然現象だということが理解できる。現在、東京なよろ会のスキーツアーが関東から名寄市のピヤシリゲレンデを訪問中であり、幸運に恵まれるとこのサンピラー現象に巡り合えるかも知れない。
<冬の寒さが厳しい朝、澄んだ空気の中をダイヤモンドダストがきらきらと舞う。氷晶たちが太陽の光に反射し、大きな光柱(sun pillar)を作り出す。天候や条件により、名寄の雪原に突如現れる神秘的な自然現象。>

2015-01-24

悠々楽山会で高水三山へ

(関東の山景色)
(岩茸石山)
2015年度の第一回山会は1月14日の東京都高水三山(793m)でした。前日までの冷たい雨、北海道や日本海側の雪にも関わらず、今回の山会は晴れに恵まれました。軍畑駅から高水山、岩茸石山、惣岳山と三つの頂きを越えて、御嶽駅に降りるコースでした。私のような初心者にはややきつい道でしたが、何とか歩くことが出来ました。
(山頂昼食会)
(関東の冬山道)

いつものように山頂の楽しい昼食会、下山後は河辺駅で途中下車、温泉と新年会を楽しみました。
体調が許せばこうした運動はとても良い気分転換になります。今年も頑張ろうとの思いです。

2015-01-23

20年目の父の命日

(父の写真)
私の父である故藤原貞吉は屯田兵の子どもとして大正14年(1925年)8月1日に北海道に生まれ、平成7年(1995年)1月12日に北海道名寄市で亡くなりました。69年の生涯を北海道内で終始しました。

この1995年1月は忘れがたい年です。今から20年前、私は東京で仕事をしていたのですが、父の死を迎えて、喪主として田舎の実家に戻り、葬儀やら実家に一人となった母の今後のことなど親戚との相談もしていました。その最中に阪神・淡路大震災が発生したのです。



1月17日は北海道名寄市に滞在していて、テレビ報道で阪神・淡路大震災を知りました。報道によって「これは大変なことになった」と思いました。当時、私は日本生活協同組合連合会に勤めていましたので、急いで東京に戻り、広報担当としての仕事に復帰したのです。比較的早い時期にコープこうべを通じて、神戸を訪れる機会も得ました。

私には20年前の一月の記憶として神戸市内の崩壊した建物跡や残された電柱や建造物が傾いている心をざわつかす光景があり、そして父の命日とその後の葬儀での北海道名寄市の雪景色があるのです。これらは40代半ばの私の転機となった出来事でした。