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2012-07-28

日本の住みやすさ( Japan,comfortable to live)

日本の住みやすさ(南アに3カ月住んでみて)
ケープタウンの海岸通りにあるかっての灯台

①夜中の一人歩き

日本では夜遅くなり、酒を飲んだとしても電車などを利用して家に帰ることが出来ますネ。さほどの警戒心を持たなくても忘年会、新年会、歓迎会、暑気払いなどと飲む機会も数多いと思います。 しかし、南アの場合、比較的安全といわれるケープタウンであっても、一般市民が酔って無防備に歩くことは厳禁です。マイカーまたはいつも利用するタクシーで自宅までたどり着く必要があります。暗い夜道を一人で歩くのは襲ってくださいと振る舞っているようなものです。

②魚種の豊富な魚やさん

日本では専門店や魚市場、食品スーパーなどのお魚コーナーで旬の魚を選ぶことができますネ。 冷凍・冷蔵や流通技術の革新でおいしい魚が季節ごとに手に入りますが、南アではそうはいきません。マグロ、サーモン、タラ、タイ、イカ、エビなどは美味しいものが並ぶ場合がありますが、なかなか鮮度の管理された魚にはめぐりあえません。

③交番

日本では落し物を拾った・財布をなくした、道に迷ったなど様々なことを近所の交番に相談しますネ。南アでは警察署はあっても、交番はなかなか見つけられません。それに拾った財布を警察に持ち込むのは、きちんと処理されことはないのだから愚の骨頂だという意見があります。

④シャワレット

日本ではかなり普及していますネ。南アではこの便利な道具を利用することはありません。一部の人々が日本から輸入して使っていますが、まずはお目にかかれません。イスラム系の人々がトイレの近くにハンドシャワーを設置する場合がありますが、シャワレットのようような使い心地は実現しません。

⑤きちんと守られる交通規則

日本では交通規則が定められると、もちろん、違反事例は交通警察などによって摘発されますネ。南アでは高速道路を次々と人が歩きます。運転する側がおびえてしまいます。さらに、飲酒運転は日常茶飯事ですね。また、小型の乗合バスがあって、ケープタウン市内を我が物顔で乱暴運転しています。急な路線変更、停車など日本ではありえない状況です。

⑥スイカやパスモ

東京では自家用車がなくても、様々な交通手段を活用して目的地まで行き来できますネ。特に鉄道系の切符のかわりにスイカやパスモが使えることは本当に便利なことです。乗降が実に速やかで列車の運行時間がきちんと管理される根拠の一つですね。東京で驚くことは各駅の乗降客が多い駅で、あれだけの人数がきちんとトラブルもなく移動していることです。整列して順番を守れる、エスカレーターのワンサイドを急ぎの人のために開けておくなど、南アではなじまないことです。

⑦日本語

東京ではどこに出掛けても日本語の案内板がありますネ。最近は英語や中国語、ハングル語なども掲載されているようですが、日本語が読めれば道案内は何とかなりますし、人に道を尋ねる時も日本語で十分なわけです。しかし、南アでは公用語として11言語が認められており、場所によっては英語だけでは通じない状況があり、日本とは違って一つの言語では収まらない、まさに「虹の国」となっています。



2012-07-25

日本での夏休み(Summer holidays in Japan)

南アの住まいの玄関口で
「藤原一也の南アフリカレポート」を見てくださる皆様、この10日間、書き込みをしていません。更新されない画面が続いています。大変申し訳ありません。この間の事情を書き込みたいと思います。

現在、私は南アフリカ共和国から一時帰国して、日本の埼玉県で暮らしています。7月16日(日)にケープタウンを出発し、アラブ首長国連合のドバイを経由して、翌日の7月17日(月)に成田に到着しました。エミレーツ航空を利用して、ケープタウン→ドバイ→成田と移動しましたが、冬の季節のケープタウンを出発したため、しっかりと着込んだ衣類を、トランジットのドバイ空港で夏向けに軽装に着替えをして、日本への帰国を果たしました。7月17日(月)の日本はとても蒸し暑くて、南半球から北半球への移動を実感した次第です。この夏の日本で8月8日(水)までの約3週間を過ごし、8月9日(木)には再び真冬のケープタウンに戻る予定です。

4月5日(木)に日本を出発して、7月16日(日)までの約3か月の期間を南アのケープタウンに過ごして、日々の感想をマイブログに書き込んできました。自分ながら驚くことの連続で、初の外国暮らしに、戸惑いながらも何でも見てやろうの精神で過してきました。語学学校に通って、10代~20代という各国の若者達(特にアフリカ諸国やブラジルやサウジアラビアなどの)と触れ合う機会を得たことは、私にとって貴重な経験となりました。

この10日間で日本で何人かの日本の友人と話す機会を得ましたが、私の南アについての語り口が、日本での暮らしぶりとの違いについて述べていることが多いことに気づいています。これまではそれほど感じていなかった視点から、改めて日本の暮らしについて述べているということでしょうか。

この「藤原一也の南アフリカレポート」では、日本滞在中の残り2週間の期間は「日本にあって南アフリカにないもの」という視点でレポートしようと思います。

2012-07-16

ネルソン・マンデラ・デー(Nelson Mandela Day)

ロンドンのマダム・タッソー館にて
 ネルソン・マンデラさんは1918年7月18日に南アフリカの東ケープ州に生まれました。彼の自伝Long Walk to Freedomでは以下のように書いています。(at Mvezo,a tiny village on the  banks of the Mbashe River in the district of Umtata, the capital of the Transkei.)
 
 彼は明後日に94歳になられるのですね。南アフリカの皆さんは1994年に全人種参加の総選挙を行い、アフリカ民族会議(ANC)を自分たちの未来を託す与党政党として選出し、当時のANCの議長だったネルソン・マンデラさんを南アの8代目の大統領に据えました。この時から南アは虹の国として歩みだしたのです。


ザピロさんの書籍
  20世紀の象徴的人物とも云えるネルソン・マンデラさんはケープタウンの大きな書店などに行くと、ほぼ間違いなく特別のコーナーが設置され、彼に係わる書籍や写真集が販売されています。
 ロベン島を訪ねると彼の言葉を印刷した絵葉書や書籍、ユダヤ博物館に行くと彼はアパルトヘイトと戦った人として本や写真集のコーナーが設置されています。

 また、こちらでは著名な漫画家のザピロさんは「The Mandela files」という本を出しています。その他にも数えきれないほどの研究書、関連図書が出され続けています。政治家としての功罪は多分あるのでしょうが、彼は南アの国民に間違いなく愛されているなと感じます。日本には果たしてこのような人物はいるのでしょうか?


フリーのAtlantic Sun紙(7/12)から
  こちらのAtlantic Sunというフリーの新聞に「What are you doing for your 67 minutes?」との見出しで記事が書かれています。これは2009年に「ネルソン・マンデラ・デー」が国連の国際デーとして定められ、翌年の2010年に彼が92歳の誕生日を迎えるにあたって、アパルトヘイトと戦った67年間を思い起こし、他者のために67分間の時間を費やすことが呼びかけられたことに由来しています。 
 私もたまたまこの南アフリカケープタウンで、約1年間を過ごすという時間を与えられたわけですから、この20世紀の巨人について、少しでも良いからその精神を学びとりたいと考えています




ケープタウンのバスティーユ・デイ(Bastille Day in Cape Town)

仮装して参加①
仮装して参加②
 
作日はその昔、世界史で習った「火縄くすぶるバスティーユ~1789年7月14日」のバスティーユ祭の日です。日本ではパリ祭と言うことでしょうか… 
 ここケープタウンでは2010年のワールドカップサッカーの準決勝が闘われたグリーンポイントスタジアムの一部をフランスが借り切って、盛大に記念行事を行いました。



サッカー場でのバスティーユ祭
  毎年の行事と言うことですが、この頃はヨーロッパの不景気を反映したのか、有名企業の協賛が入っていて、設えられたテーブルには企業のパンフレットが置かれ、各商品の協賛コーナーもありと言ったところでしたが、そこはフランス、凡そ1000人規模を集める一大イベントになっていました。とても賑やかに仮装した人々や各界の名士たちが訪れてフランスワインやチーズ、パンなどを楽しんでいました。開会にあたってフランス国歌と南アフリカ国歌の演奏がありましたが、どちらもなかなか高揚感の溢れる旋律でした。 

 
 このような場で英語やフランス語が上手に扱えたならばより楽しいことは間違いないのですが、数少ない知り合いを見つけて話をするのも貴重な経験となります。

 昨晩は南アの夫婦から話を聞きました。日本に長く住んだことがある舞踊家とモデル兼写真家ということです。2011年の3月11日は日本に滞在されていたとのことで、東京で体験したあの日の揺れはそれまで経験したことのないものだったと話していました。
 
 そしてご自身は福島県の郡山市などを中心に何度も救援ボランティアを行い、その折に撮ったという写真をiPhon(アイフォーン)にたくさん収めていて、私にもその場で見せてくださいました。
 
 現場でしか撮れないたくさんの写真を見て、この夫婦の心からの支援を感じとり、お礼の言葉を述べましたが、ケープタウンのバスティーユ祭で日本の東北地方の話をすることが出来て何か感ずるものがありました。このご夫婦以外にも、南アからは被災直後の3月に宮城県の名取市にボランティア支援が行きました。南アのこのような方々がおられることに深く感謝したい気持ちです。

2012-07-14

ユダヤ博物館とホロコスト博物館(The South African Jewish Museum and the Holocaust Museum)



ユダヤ博物館
  
旅行案内にはユダヤ博物館について「南アフリカで最も古いシナゴーグ(ユダヤ教寺院)が博物館となっていてユダヤ教の歴史や儀式上重要な品物などがある」と簡明に解説してありますが、私は同じ敷地内あるホロコスト博物館を併せて訪ねることでこれらの博物館施設見学の重要性がさらにはっきりすると思いました。

マンデラさんによる記念の石碑
 そのように考えたのはヨーロッパ大陸でナチズムによる迫害を受けたユダヤの人々がこの南アフリカの地でアパルトヘイトに遭遇することになるからです。ヒトラーによるホロコストによっておよそ600万人の命が奪われた事実がありますが、20世紀になってヒットラーが政権を握った時期やその以前から、移民としてアメリカなど各地に渡ったユダヤの人々がいます。この南アフリカへはヨーロッパのリトアニアなどからホロコストを逃れてきた移民が数多くいたようです。そしてこの地での法律による移民制限、その後のアパルトヘイトとの時代と20世紀末まで人種をめぐる葛藤を経験したからです。この博物館ではゲットーを生き延びて、この南アフリカに逃れ住んだ人々のビデオ証言を見聞することが出来ます。まさに息をのむ生の声と映像です。私はしばらくの間立ち上がれませんでした。

ホロコスト博物館
 このホロコスト博物館には唯一の日本人が紹介されていました。杉原千畝さんです。「Senpo Sugihara(杉原さんが外国人に発音しやすいセンポとして名乗っていたことによる)はリトアニアのカウナスの日本領事であり、ユダヤ難民が極東へ移動するためのトランシットビザを発給した」として簡潔に紹介されています。ユダヤ博物館にはヨーロッパでのホロコストの経験を踏まえてアパルトヘイトに一貫して反対した女性議員としてこちらでは良く知られているヘレン・スズマンさんやノーベル賞作家のナディン・ゴーディマさん、南アフリカ共産党の書記長を務めたジョー・スロボさんなどが紹介されていました。建物は違うけれどもユダヤの人々を支援した人として杉原さんがホロコスト博物館に記されているのは、日本人としてとても誇らしいことだと感じました。
 
根付の展示会案内
 また、予想もしていなかったのですが、ユダヤ博物館では同時に日本の「根付」展示を行っていました。アイザック・カプランさんの収集品で213点が展示されていました。どれも見事な作品で日本でもこれだけまとめて見学できる例は数少ないのではと思いました。そうかこんな分野にも極め付きの日本びいきがいるのかとえらく感心してしまいました。

2012-07-12

南アの空手道場(Okinawa Gojuryu Karate Association in South Africa)

型の練習
先日、沖縄剛柔流空手道協会南アフリカのカッタン支部長の道場を訪ねて、練習の一部を見学する機会がありました。この道場は南ア全体の2千人の生徒を束ねています。そして元を辿ると日本の沖縄にたどり着きます。カッタン支部長は機会あるごとに日本の沖縄を訪ねて道場に通い、黒帯六段とのことです。

今回見せていただいた空手の模範演技も見事に決めていました。普段の練習は一日として怠ることはないそうです。この流派は口よりもまず実践とのことで空手の型の習得を黙々と行っています。構え、突き、蹴り、気合などの動作を型ごとに繰り返して、真剣に身体を動かすことで短時間で汗がにじみ出てくるようです。道場で30名ほどが一斉に練習をはじめると傍にいるだけで圧倒されそうな集中力と気合いでした。

カッタン家のご家族とお弟子さん
  
カッタン先生
 カッタン先生は日本大好き人間の一人です。訪ねた家の庭には「コイフィッシュ(鯉)」の池が設えてありました。見学の後に先生のご自宅に招かれて、伝統的な南アの家庭料理をいただきました。先生のご家族、奥様、息子さんとその婚約者、御弟子さんと楽しい食事と会話となりました。奥様も空手の指導者で毎日の鍛錬を怠らないそうです。21歳の息子さんもとても鍛えた身体つきでスポーツインストラクターをしています。その婚約者も空手を学んでいるとのことでまさに「空手一家」と言った趣でした。
 
南アの伝統料理
 食事中にカッタン先生が特に強調されたのが、「不言実行」「質実剛健」と言った沖縄空手の神髄についてでした。確かに新幹線や自動車、ロボットなど先端技術も日本の良いところとは思いますが、この南アのカッタン先生は日本人の心が気に入って、日本の心には学ぶべきことがあるとおっしゃるのです。ちなみに先生はヘブライ語、アラビア語、英語、南アのコーサ語が話せるインテリでもあります。以前に私のブログに書いた日本語弁論大会での南アの若者の主張には私自身考えることが数多くあったのですが、今回の訪問も思ってもいなかった視点を投げかけられた気がします。

南アに懸けた虹の恋(A love story over the rainbow)

葡萄畑を望む
  土曜日にステレンボッシュにあるワイナリーを訪ねました。ここのワインはスタークコンデやニールエルスとして日本でも知る人ぞ知るのワインを出しています。ケープタウンからは1号線や2号線を利用して、車で小一時間のところにあります。ここのワイナリーの当主、ハンスさんは背の高いドイツ系の南ア人です。日本で長く暮らしたことがあり、筋金入りの日本びいきです。自宅の屋根を茅葺きにしたり、檜風呂を自作で作ったりしています。さらにすごいのはステレンボッシュの山並みを借景にし、池を活用した日本風庭園と東屋風の趣のあるワインのティスティングハウスを何年もかけて作り上げたとのことです。元は船乗りをしたり、教員をしたとのことですが、今はワイン造りに勤しむとは特別な才能があるんですね。
 
ご自慢の品物
 奥様は日本人のミドリさんです。とてもしゃきしゃきとして頭の回転の速い人です。そして美人です。若きハンスさんが惚れてしまったのも肯けます。このお二人にも今だからこそ振り返れるようになった辛い時代があったのです。南アのアパルトヘイト政策は実に1992年まで続いていたので、二人が日本で出会って結婚にまでたどりつくためには随分とご苦労があったようです。あまり詳しくは話しませんが、南ア国籍のハンスさんが日本人と結婚するためには二度と南アには戻らないないからなどの約束が必要だったようです。


ストーブのある部屋から
  結局、現在のワイナリーを南アで立ち上げるためには、南アが虹の国となった1990年代まで待つ必要があったのですね。
 
 日本から遠く離れた虹の国へ、ミドリさん、よくぞ来られましたねと言うのがお話を伺って、胸の内に湧いてきた私の感想です。そこでタイトルを「南アに懸けた虹の恋」としました。ここでいただいたワインは聞いた話と相まって極上のテイストだったことは間違いありません。お二人に「チアーズ」…

2012-07-08

語学学校の最終日(My last lesson in I.H.)


クラスメート①(午後クラス)
 インターナショナル・ハウス語学学校でのラストディーは貴重な経験をしました。午前のクラスでは過去完了形と過去完了進行形という日本人にはなかなかに扱いが難しい文法を勉強して、その後はコーヒーを飲みながらこれからの自分達について語り合いました。
 ガボンから来ているカティは会社勤めを希望し、会計関係の仕事、サウジアラビアのアブドラは音楽関係に進みたいそうです。そしてほぼ私と同い年の南アのクリストル先生は9月からサウジアラビアに行って語学教師をする予定です。        

クラスメート②(午後クラス)
 午後のクラスは2クラスが合同で最初から喫茶店に行き、将来について話しました。ガボンから来ている大学生は本日が最後の授業と言うことでした。国にいったん帰って最終学年を終え、海外でで職を得たいそうです。幸いに自分は英語とフランス語が出来るからということでした。アンゴラから来ているエスタも来週には語学学校を終えて、いったん国に帰り、その後は出来たら外国で会計関係の職を得たいとのこと。
 サウジアラビアから来ている2人の女性はこれまではなかなか写真を撮らせてくれなかったのですが、今回は写真撮影も大丈夫とのことで初めて写すことが出来ました。一人は大学で歯学を勉強中とのことで、この後4年間勉強して歯医者になるようです。もう一人はデザイン関係の仕事につきたいとのことでした。
 
クラスメート(午前クラス)
 サウジアラビアの女性については「人前で髪を見せてはいけない」「街中で車の運転をしてはいけない」「女性の投票権はない」「オリンピックにはまだ女性選手が出場できていない」など母国では私たちから見て、信じられないことが続いているようですが、海外での語学学習の機会やインターネットなどを通じて少しづつ世界各国の情報が入っているようです。しかし、彼女らは私が日本から来たといっても、なかなか実感がわかず、この日は改めて「日本と中国は何が違うのか」と聞かれました。このように真面目に聞かれると何も知らない人への答えは結構難しいということが判りました。例えば私がアンゴラとガボンは何が違うのかと聞いているようなことだと思うからです。

語学教師
 結局、英語は意思疎通の手段であって英語が使えると言えるためには、世界中で、今、起こっている様々な出来事や歴史に係わる知識を身に着けないことには、話を先に持っていけないと実感した次第です。それでも私のインターナショナル・ハウスの最後の日は印象深い日となりました。
 
 サウジアラビアの女性が今日でおしまいの私のコーヒー代15ランド(150円)をおごってくれたのです。日本と中国の違いについて乏しい語学力で懸命に伝えようとしたことに好感をもってくれたのか、理由は良くは判りませんが、私はサウジアラビアの学生達の振舞について少しだけ誤解が解けて、とても嬉しかったのです。 

2012-07-06

南アの月給②(Monthly earnings of South Africans)

この人が毎朝教室をきれいにします
 私の語学学校では、授業の初めにそれぞれの生徒の昨日の行動について話します。私がたまたま、自分のブログに南アフリカの平均的月収について書いたと報告したことから、その日出席していた生徒の国(ブラジル、ガボン、サウジアラビア、日本)の月収事情はどの程度かが話題となりました。ブラジルではサービス業の月収は3000ランド程度(3万円/月)、ガボンは2000ランド程度(2万円/月)、サウジアラビアは不明ということになりました。それぞれの国から来た語学学校の生徒の発言ですし、何か根拠データを示したということではないのですが…

 前回このブログで報告した南アの2800ランド(2万8千円)がそれほどおかしな数字ではないのではとの感想を持ちました。日本では正規職員の場合、月収は20万円以上の人が多いと話したところ皆さんに大変驚かれました。また、家賃の話にもなり、日本は10万円以上のところがあると話したところ、これもまた驚かれました。「東京は世界一物価の高い国」との先生のアドバイスがあって、月収の話は終わりましたが、円とランドとの為替はどんなことになっているのかを知ることも大切なことと思いました。日本からのブログへの書き込みに「南アの金利について知りたい」とあったこととMさんから「ランドー円」情報サイトの紹介をしてもらいましたので、金利への回答にはなりませんが、為替事情をブログに貼付することにしました。(右側画面参照)

ネルソン・マンデラのご近所さんだった?
 さて、三カ月に及んだ私の語学学校の英語学習も残り一回となりました。本日はこのインターナショナルハウスでの教師への満足度、教室施設への満足度などへの評価を書面にしました。明日の最後の授業の後に提出します。六三歳にして、十代、二十代の若者と机を並べることは正直言って大変でしたが、学校中でも一番真面目な生徒たちの分類に入るのは確実です。無遅刻で通しましたので、若いクラスメートには「変なおじいさん」との印象を与えたかもしれません。そして、真面目さだけでは英語が上手くならないのも、また道理です。実感としては2-3年続ければ何とかなるかもと言ったところです。
 
 本日の教師から「自分の家はネルソン・マンデラの家と隣合わせだった。子供のころ実際に声を掛けてもらったことがある」との話を聞きました。「おー、そうなんだ。ここは南アフリカなんだ」とえらく得心しました。

2012-07-04

南アの月給?(Monthly earnings of South Africans)



クラスの仲間とトーキング①

クラスの仲間とトーキング②
   英語の授業の一環として、こちらではトーキングの手法が良く使われます。ある時、もし私が政治家だったらとして、トーキングを行いました。私は何人かの先生から、「教職員の給料は決して高いレベルではない」と聞いていたので、「南ア全体に横たわる貧困の問題や青少年の暴力問題を解決に導くためは何が必要か?」との問いかけに、確か、「青少年の教育が最も大切、そのためには学校教師の給与をもっと上げたらどうか?」と発言したことがあります。その時は英語教師の月給が10万円程度で掛け持ちをしている人もいると聞いたことがあったので、日本人的な感覚で少なすぎるのではないかと考えていたわけです。その後、正確な数字は知ることが出来ませんが、様々な職種の中では月収がこの程度といった情報が増えてきました。

資料と新聞(CAPE TIMS7/3)
 南アの月給についての考察がなされている「Mothly earnings of South Africans,2010」という資料に基づいて、この国の給与水準を考えてみました。平均的な数字として2800ランド(2万8千円)、マネージャーやプロフェッショナルに分類されている層が10000ランド(10万円)、セールスやサービスは2400ランド(2万4千円)などになっています。 
 また、年収が63556ランド以上の場合に税金の対象者になるのですが、2010年は600万人だったのが、2012年には1370万人と2倍以上の増加との記事が7月3日付のCape Timesに載りました。ここからは収入が課税限界を超える層が増えたことと、一方で税金を払わなくても良い層、例えば目安としての(63556÷12)ランド以下の月給層の人々がたくさんいることが判ります。

 これらの数字からは南アの一般的な労働者にとって、ゴルフのプレー代金300ランド(3千円)やレストランの食事代金200ランドや映画のチケット代金65ランド(650円)などが決して安いものではないのだと判るようになりました。私が価格が安いとして紹介しているいくつかの事例も、この国の感覚からして、日本人のようには考えないことが判ってきました。以降、単純な日本人的な発想で食品やサービスの価格を述べることには気を付けようと思います。

2012-07-03

南アでのゴルフ代金など(Golf playing fee )

私のゴルフ歴は50歳を超えてから覚えたもので、とても短い期間です。日本で土日にプレーをする場合は、一般的に見積もって、ゴルフ道具の往復宅急便が2600円、交通費が3000円、プレー代が10000円、プレー終了後のお付き合いや昼食代で2400円として、ざっと18000円程度は覚悟する必要がありました。これは節約した事例と思いますが、たまに少しでも有名なゴルフ場でのプレーの場合は3万円を超える時がありますから、「ゴルフって結構高くつくスポーツ」のイメージを持っていました。
 
ゴルフ場は車で1時間以内
 ところが南アの場合、ケープタウン周辺にある比較的名の通ったゴルフ場でのプレー代は一人当たり2000円~3000円です。(ゴルフクラブ会員価格)キャディーを頼んでも一日で1500円程度、カート代金は1000円程度で利用可能です。交通の便としては自動車を利用するしかないのですが、市の中心部からわずかに30分~60分圏内にたくさんのゴルフ場があります。こちら南アの給与水準はかなり低いので、日本との単純比較は出来ませんが、日本的な価格感覚ですと「安い」です。日曜日は朝からゴルフ場に行って午後2:00頃には18ホールを終えることが可能です。ゴルフを終えてから、さらに午後の時間帯を買物などに使うことが出来ますのでこれが有難いです。


洒落たコーヒー
   
 先週の事例ではゴルフを終えて、(カートなしの歩きで18ホール)、その後、シーポイントの自宅に帰り、徒歩でウォーターフロントまで散歩、3Km(約45分)買物をして、コーヒーを飲み、映画を見ました。帰りはタクシーを利用しました。コーヒー代金は150円、映画は600円、タクシーは450円でした。日本人の金銭感覚ですと、比較的安く利用できるということだと思います。

 勿論、この価格帯の話ははこちら南アの給与収入がどの程度なのかということと密接にかかわりますので次回以降に書いていきたいと思います。
 

2012-07-02

南アの公開討論会(Public Dialogue)

公開討論会の様子
  6月28日(木)に紛争解決センター主催の公開討論会(Center for coflict Resolution Public Dialogue)に参加しました。このような一般集会に参加したのは初めてのことです。現在の語学学校に区切りを付けることから、私としては今後を展望する大事な機会と考えました。「マンデラとムベキ、ヒーローとアウトサイダー( MANDERA and MBEKI The Hero and the Outsider)」というタイトルの討論会でした。聴衆は凡そ100人、ケープタウンの中心部にある別の非政府組織(NGO)の建物で開催されました。

会場入り口に並べられた出版物
 南アの南アフリカ大学(University of South Africa Tshwane)のDr Lucky Manthebeが上記の本を出版した記念講演会の形をとり、メインスピーチは同氏が行いました。そして対論者(Discussant)をジョハネスブルグにある人権基金(Fouddation for Human Righuts)のMr Andile Mngxitamaが受け、司会進行(Chair)をUniversity of Cape TownのDr John Akokpariが担いました。

 この三人のスピーチに加えて、参加者が会場から挙手をして自分の意見を述べます。この討論会の内容は私の語学力では詳細はまだ判りませんが、「1994年の虹の国の出発以降のリーダーとその政策をどう考えるのか、すなわち現政権のANCの政策をどう評価するのか」という極めて今日的な討論だったのではないかと思いました。

当日販売された書籍と新聞での開催案内
 会場の前側に座った三人に対して、聴衆からも野次や拍手や足踏みが出るなど参加者が真剣に議論している様子はとても好感が持てました。そして日本などとは違う国の若々しさを感じることが出来ました。南アの今日を考えるにあたって民主主義の問題は避けて通れない題材であり、マスコミなどが現政権に臆せずモノを言っていることやこの討論会のようにオープンな形でそれぞれが意見表明をする場があることなどはとても大切なことと思います。
(英語に自信のある方、著作に関心のある方はCenter for coflict Resolution のホームページをご覧ください。当日の音声による記録がすでに収録されています)